Sketches of Architects

横須賀満夫がライフワークとして描いてきた
建築を中心としたスケッチ作品

  • 水府橋
    水府橋
    水府橋

    水府橋

    「さようなら水府橋」 水戸市の那珂川に架かる水府橋は開通から75年を経て、今も県都の大動脈としてその存在感を示しています。このスケッチに見られるように、美しい構造美を今も誇っています。橋の開通は1932年(昭和7年)、世界的な大恐慌に見舞われた昭和初期に政府の失業救済事業として行われました。又、水府橋の架橋以前は水戸市下市の寿橋を利用していましたが、下市の道路は狭く屈曲路が多く、水戸線と常磐線の踏切が交通障害となって上市との交通が円滑でなかったことがありました。そんな状況の中で、水府橋の架橋工事は水戸駅から北へ直進し大杉山を切り通しとして那珂川に至り、これを橋で渡り水郡線を立体交差して勝田市(現ひたちなか市)枝川で国道6号に合流する延長2,480メートルのバイパス工事の一環として行われました。橋長172.1メートルの水府橋の形式は、専門的には下路3連ワーン型トラス3連橋と呼ばれるものですが、構造面で注目すべき点は車道の両側にそれぞれ2メートルの歩道が設けられている事です。車の交通量が少ない当時としては、橋に歩道を設けることは考えられないことでしたので、画期的な橋と言っても良いと思います。開通式は盛大であったそうです。開通は当日の「いはらき新聞」に『水府橋きょう第一歩を記す。水戸に新名所』と見出しを打ち、翌日の夕刊(夕刊があったのです)では小学生2千人が日の丸を手に、渡り初めをする模様を写真3枚入りで伝えています。総工費約17万円の水府橋は市民待望の本格的な鉄鋼の橋だったのです。この那珂川に架かる名物橋も数年後には去り行く運命にあります。水害を防ぐ為の河川改修に伴って架け替えが決まり、新橋の建設が下流域に進められています。市民の暮らしや楽しさを支えてきた名橋にご苦労様そしてさようならを!

    Location 茨城県水戸市水府町

  • 六地蔵寺
    六地蔵寺
    六地蔵寺

    六地蔵寺

    六道輪廻 六地蔵寺の本尊は身丈六尺の一本造りで行基菩薩一刀三礼真作と伝えられている。六体の地蔵菩薩(六地蔵尊)である。
    この御本尊様を絵にすべく5月の連休に現地を訪れた。しだれ桜の季節でびっくりする人出であった。一回目のスケッチはのぞき師が多くラフスケッチで帰り、二回目、そして三回目でようやくまとまった。本当の地蔵様は地蔵堂の中に6体ではなく、7体が納まってる。プラス1体は地元民が火除け地蔵として寄贈したそうである。(栗原住職談)
    六地蔵信仰についての話を引き続いて栗原住職より伺った。「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上」この六つの世界へ死後、生前の行いによって巡り行く、これが鎌倉時代民衆の伝わった六道輪廻の思想である。戦乱の世を迎え「生き伸びること」を優先した人々は死後自分達が訪れる道を案じた。来世は「地獄」か「餓鬼道」か。そこでお地蔵様を六つの世界に配置する信仰が生まれたのだという。
    そもそも「お地蔵さま」は苦しみを取り除いてくれる存在として日本全土で古くから信仰されてきたもので、女性のお産が少しでも楽に済むよう、病気や、怪我に苦しむことのないよう、また、心の苦しみや悲しみを取り除いてくれるようにと各地、各所に祀られた生活に密着した馴染み深い信仰の形であるとの事だ。
    又、六つのお地蔵さまに、どうか来世どの世に生まれても見守ってもらえるようにと祈る。人間の弱さとともに純真さを感じさせる民衆の思い、これが、六地蔵信仰の根幹にあるとの事だった。
    私は輪廻なしで結構ですから「天上」にとどまります事を真剣に願って参りました。

    Location 茨城県水戸市六反田町

  • レストランよこかわ
    レストランよこかわ
    レストランよこかわ

    レストランよこかわ

    建築様式の一つとして、「モダーン様式」があります。
    モダン様式を要約すれば装飾を極力避け、シンプルなデザインを目指したものです。
    この建物は1971年に建築家 増沢 洵 が設計したものです。
    水戸には珍しく現役の商業建築として活躍している、「モダーン様式」の建物です。

    Location 茨城県水戸市大町

  • 太田第一高等学校講堂(旧太田中学校講堂)
    太田第一高等学校講堂
    (旧太田中学校講堂)
    太田第一高等学校講堂(旧太田中学校講堂)

    太田第一高等学校講堂(旧太田中学校講堂)

    茨城県立水戸商業高等学校の旧本館玄関を描かせて頂き、スケッチを送った先輩から「母校の講堂も描け」との御指示をいただいた。久し振りに講堂の前に立った時に、異様な程の緊張感に捕われた。案の定、絵が描けない。描いても色が出ない。劣等生だった学生時代の原風景が私を拘束していたのである。
    この講堂は、立派なペディメント(三角破風)が特徴である。その中の大型の円形はなんと通気孔なのである。作者は駒杵勤治である。
    これ以外に駒杵は県庁技師として、土浦一高、竜ヶ崎一高を手掛けている。大建築家辰野金吾の直弟子の一人と思われる。いずれの作品もこの太田一高同様に、癖のある忘れがたいアンバランスのデザインゆえの迫力がある。

    Location 茨城県常陸太田市栄町

  • 旧町屋変電所
    旧町屋変電所
    旧町屋変電所

    旧町屋変電所

    この、国の登録有形文化財『旧町屋変電所』(常陸太田市町屋)は、1909年(明治42年)に町屋発電所と中里発電所の為に久原鉱業所日立鉱山(現日立製作所)が建設した変電施設である。洒落た煉瓦造り、切妻屋根の建物に寄棟屋根の建物がつながる外観。県内初期の発電関連施設として資料的な価値ばかりでなく、目の前を里川が流れ、背後には美しい山並み、春の桜、夏の緑、秋の銀杏、冬の雪景色の中に佇む赤い煉瓦作りのこの建物は、童話的で不思議な魅力がある。1911年(明治44年)、水戸・笠間・土浦に続き、県内で4番目に電気がこの地に光を灯した時、町屋の人々は「電気見たけりゃ町屋へ行け」と町のシンボルを誇ったという。
    ところで、この旧町屋変電所には、もう一つ、『茨城の電気王』と呼ばれた男、前島平〔まえじま・たいら〕にまつわる物語がある。1865年(慶応元年)、水戸藩士の家に生まれた前島。だが時代の流れに生家は生活に窮し、15歳の時に久慈郡太田村(現常陸太田市)の亀宗呉服店に奉公に出る。20歳の時に、その働きが本家「亀半」呉服店の当主に認められ婿養子となった。呉服店を栄えさせた前島は、1906年(明治39年)、茨城初の電気会社「茨城電気株式会社」を設立、建設を始めたのが前述した中里水力発電所なのだ。しかしこの事業は暗礁に乗り上げ、日立鉱山開発で電力を必要としていた久原鉱業所日立鉱山に一時譲渡することになる。その譲渡金を元に、前島は水戸に火力発電所を建設。1907年(明治40年)、水戸市内へ茨城県初の配電線による電気の供給を始める。その後、中里発電所を日立鉱山から買い戻した前島は、同時に町屋発電所、町屋変電所を買取り、1911年(明治44年)故郷の人々の家に電気を灯すのである。
    町屋変電所は、1956年(昭和31年)まで機能した後、地域の集会所として利用され、今は地元の保存会によって整備されている。近年は、町屋変電所のライトアップイベント『行灯の赤レンガと銀杏まつり』なども開催されるなど、今も地元の人々に愛されている。

    Location 茨城県常陸太田市西河内下町

  • 旧水海道小学校
    旧水海道小学校
    旧水海道小学校

    旧水海道小学校

    この名建築は茨城県立歴史館の敷地の中に移築・保存されているものである。
    県立歴史館は偕楽園の北側にあり、市街地の中にありながら広大な敷地を誇っている。 敷地全体が大樹を中心とした自然林のたたずまいで構成されており、緑あふれる素晴らしい雰囲気をただよわせている。
    地方都市らしいそして水戸らしい雰囲気をもった空間としては旧茨城県庁跡と双壁である。
    旧県庁跡地は旧県庁舎と県立図書館、そしてこの地は県立歴史館と旧水海道小学校がバランスよく配置されている。
    新旧の建物が建築の様式の変化を超えた時の流れの妙味を語り合っている様である。 この「旧水海道小学校」の建築は明治14年の建築である、とても小学校とは思えない迫力を備えている。この建物の中央の塔を中心に描いたものであるが、この部分が建物を作った精神の全てが凝縮されていると思われる。
    江戸時代、水海道は鬼怒川の舟運によって商都として栄えたところである。同じ水海道 では明治の初期に洋風の警察署を建築しており、その影響を受けた街の人々が5000円余りの寄付を集めてこの小学校を作ったそうである。
    校舎の設計も建築施工も水海道の宮大工で棟梁の羽田 甚蔵である。羽田は水海道の一言主神社、天満宮などの造営にもあたったと云われる人物であり、この西洋風の校舎を建築するにあたっては、横浜の西洋建築を見て歩いたと云われている。
    スケッチのこの塔には創設当時は太鼓が吊るされていて、授業等の合図に使われていたそうである。前年描いた学生警鐘が弘道館の学生に時を告げるのに鐘を叩き、水海道では時を経て太鼓で小学生に時を告げる様は経験がないのだが、何か懐かしさ的なものがこみ上げてくる。二階の柱の上には法隆寺を思わせる雲形の装飾、避雷針の精緻なデザイン、中央の塔の手摺には和風の松の透かし...とまさに和洋混交のデザインがいかんなく表記されており羽田 甚蔵の建築を越えた情熱としての芸術が時を越えて伝わってくる。

    Location 茨城県水戸市緑町

  • 旧水戸市庁舎
    旧水戸市庁舎
    旧水戸市庁舎

    旧水戸市庁舎

    「40年間御苦労様でした」 昭和44年当時の木村伝兵衛水戸市長は市庁舎を三の丸から駅南へ移転する計画を発表した。場所は駅南小学校予定地とされた。当時市役所事業の中で、赤字と事業遅延に困っていたものに下市と駅南の区画整理があった。市役所の移転により地価が上昇するであろうから、駅南区画整理事業の推進にも役立つであろうとの思いが判断材料になったものである。
    市庁舎、水道庁舎、市民会館の建設は順調に進み、市庁舎全体は昭和47年9月18日に業務が開始された。

    区画整理事業を発展させる起爆剤の役割を併せもつ駅南移転は、地価の値上がりを待つ地主や建物の建設を見合わせている企業も多く、行政機関のみが孤立してしまう危険を含んでいた。

    昭和46年11月14日に水戸市長に再選された木村伝兵衛氏が翌年に急死、7月30日に市長選が行われ和田祐之介氏(67)が初当選した。水戸市三の丸庁舎の旧庁舎から新庁舎に移転し、業務を開始したのが9月18日であったため、木村伝兵衛市長時代に計画建設された新庁舎に木村市長は入ることなく他界し、和田市長が新庁舎の最初の市長としての椅子に座った。

    2011年3月11日の東日本大震災で市庁舎が被災し、40年の勇姿を閉じる事となった。新庁舎で業務を開始した頃は市役所までの交通の便が悪く、近くを通るバスも無く、駐車場は職員が使用し、不評であった。周囲には町並みもなく、不便極まりないものであった。
    40年の駅南地区の街づくりや景観づくりに先導的にそして規範の一つとなった市庁舎に御苦労様を申し上げ、次の時代を担う新庁舎の完成に心から期待をよせたい。

    Location 茨城県水戸市中央

  • 笠原水道 竜頭共用栓
    笠原水道 竜頭共用栓
    笠原水道 竜頭共用栓

    笠原水道 竜頭共用栓

    この絵は笠原水道の吐水口です。1662年(寛永2年)に徳川頼房が下市の水の便を良くするために始め、光圀がその後を継ぎ笠原水道を造りました。1000m程を石の樋でつなぎ、下市まで給水したといいます。備前堀あたりに今も少し残っています。
    吐水口の高さは120㎝くらいで、竜の頭が刻まれているとても素晴らしいものです。かつて、同じものが下市には10本くらいあり、それを再生したいということが言われています。鋳物の質などから、笠原の吐水口は当時の1本が残っているのだと思われます。私は工業製品的なものを描いたのはこれが初めてで、なかなかそのスケール感が出せなくて何枚も描いてみました。
    逆川緑地の南端に位置しており、水源の近くには笠原神社があり、その下にあります。まわりは大木に覆われて、水戸とは思えないような自然の中にあります。
    スケッチ時にはご婦人が水を汲んで持っていく様子がありました。勧められるままに水を飲んでみると非常においしいのです。水戸RCの中山氏に話すと、水道水だということ、その通りでした。水源からの湧水を飲料水として消毒し吐水口から出しているのです。ぜひ行って味わってみてください。

    Location 茨城県水戸市笠原町

  • 水戸八幡宮
    水戸八幡宮
    水戸八幡宮

    水戸八幡宮

    慶長3年(1598年)佐竹義宣公により建立。一重入母屋造、桁行三間、梁間二間、意匠が大変奇抜である。木割も太く、安土桃山の美の特徴をよく捉えている。工匠は佐竹公お抱えの「御大工」吉原作太郎(当時15歳)であった事が本殿内墨書により判明した。杜内の国指定天然記念物(昭和4年指定)御葉付いちょう(樹齢700年)が又見事である。

    Location 茨城県水戸市八幡町

  • Arts Towada 十和田市現代美術館
    Arts Towada
    十和田市現代美術館
    Arts Towada 十和田市現代美術館

    Arts Towada 十和田市現代美術館

    チェ・ジョンファによるフラワーホース Arts Towada は通りを一つの大きな美術館と見立てた、アートによるまちづくりプロジェクトです。「官庁街通り(約1km)」でアート作品、十和田市現代美術館、アートプログラムの三つの要素を柱に展開し「アートの感動を共有する」まちを目指しています。白くミニマルな建物と鮮やかなコントラストを出しているのはチェ・ジョンファ作の「フラワーホース」です。

    Location 青森県十和田市西二番町

  • ホキ美術館
    ホキ美術館
    ホキ美術館

    ホキ美術館

    美術館シリーズの第2弾です。保木将夫氏が収集した絵画をメインに収蔵したギャラリーです。コレクションの中心は驚異的な密度で描き込まれた写実絵画であり、美術館の原型を思い出させるギャラリーです。
    千葉県千葉市に出来ました。

    Location 千葉県千葉市緑区あすみが丘東

  • Porsche Museum
    Porsche Museum
    Porsche Museum

    Porsche Museum

    私の車への興味は中学時代にさかのぼります。開業医の父と兄がお互いにポンコツ車の所有者でありました。運転はもちろんですが、車の修理に快感を覚えました。近所に車の修理屋に勤めていたナイスガイが居ました。その彼の影響が大きかったと思います。
    キャブレターやフェールポンプの交換、ダンナモのコイル等、キングピンの差し換え、エンジンのボーリング(田代ボーリングへ届けただけです。)ピストンリングの調整、ブレーキランニングの交換、セルモーターのスプロケットの交換...何でもやりました。(念の為、中学時代です。)中学の教室ではダブルクラッチの足さばき、ヒール&トウの足技、唇を震わせたエンジン音、仲間から大喝采を受けました。ナイスガイと修理した車の車検を受けにも行きました。ブレーキを締め過ぎて、千波湖の坂が上がれず、おまけにナンバープレートの刻印を削ってしまった為、車検はもちろん通りませんでした...。
    このスケッチは、ポルシェの本場が見たく、1998年にシュトゥットガルトのポルシェ博物館へ行った時のものです。

    Location Stuttgart-Zuffenhausen, Germany

  • Samsung Museum of Art
    Samsung Museum of Art
    Samsung Museum of Art

    Samsung Museum of Art

    茨城空港を利用しソウルへ研修旅行に行き、ソウル市内にあるサムソン美術館をスケッチしたものです。美術品の内容も素晴らしいものがあります。現代建築の3巨匠マリオポッタ、ジャンヌーベル、レム・コールハースの建築が圧巻であり、オープンスペースに置かれた女性彫刻家ルイーズ・ブルジョワの母蜘蛛が色を添えています。

    Location ソウル特別市 竜山区

  • 宮下銀座・奈良屋町
    宮下銀座・奈良屋町
    宮下銀座・奈良屋町

    宮下銀座・奈良屋町

    汽車で上野を発って沿線唯一の特殊飲食街として名をはせたところであった。 宮下銀座通りは昭和45年に完成した事が当時の「いばらき」に掲載されている。この完成は当時の世相を反映している。完成祝賀会の当日には丸井水戸店が開店している。西友ストアー、東光ストアー、高島屋など大型店が市内に次々と出店した時期と重なり、商業の活性化が図られる中での誕生であったわけである。スケッチするわきをかすめる車、シャッターで閉ざされた店々、新設されたレンガのトーチカ(?)問題は山積するも、駅にも近く商業観光としてのポテンシャルの高い所だけに、特色ある参道商店街を再構して行くべきと思う。

    Location 水戸市宮町

  • 東照宮
    東照宮
    東照宮

    東照宮

    駅を出て歩道橋をわたり銀杏坂にかかるところに、東照宮の石標と丹塗の鳥居がある。その鳥居をくぐると「宮下銀座」街、その右上が東照宮である。銀杏坂は明治18年頃に開かれた切通しであって、全体が杉や松がうっそうと繁った丘であり東照宮の境内であったそうである。市街化が進み昔の俤はないが、坂の崖上に料亭環翠亭があったのを思い出す。この東照宮の社殿は、小さいながら日光東照宮に優るとも劣らない華麗な建造物であり、国宝に指定を受けたが戦災で焼失してしまい、いまは鉄筋コンクリートの近代的な社殿がたっている。 宮下町は昔は東照宮の裾になっていたので「お宮下」といって松並木があり、このあたりから千波湖に達する所を「下谷」と云った。東の東照宮の崖裾と黒羽根町の崖裾とにはさまれた地形から来た名前であるが、後の奈良屋町となった。又ここは水戸藩史上大きな影響を与えた藤田幽谷(東湖の父)の生誕の地であるが、御年配の面々には「奈良屋町」のイメージは全然別な印象を持つと思われる。

    Location 水戸市宮町

  • 学生警鐘
    学生警鐘
    学生警鐘

    学生警鐘

    この建物は旧県庁裏、第二公園の北側にあります。これに隣接する孔子廟と実にうまいコントラストとなっています。中には鐘が一基吊り下げられていて徳川斎昭(烈公)自鋳のものと云われています。 鐘の外側正面には独特の浮彫が施され、背面には斉昭の自筆で
    物学ぶ人の為にとさやかにも
    暁告ぐる鐘のこえかな(万葉仮名)
    いう歌が浮彫されています。また鐘の内面には鋳造の由来が浮彫され、斉昭の自署と花押まで添えられています。 弘道館内の学生に時を告げたり、事あるときの知らせに用いたもので一般寺院 の梵鐘とほ趣を異にした独特な作りになっています。 建設時期には定かでないが孔子廟との関連から推測すれば、安政4、5年の頃と思われます。弘道館に付随する名建築の一つです。 小雨けむる梅林の中いにしえの音を聞きたい思いにかられます。

    Location 水戸市三の丸

  • 旧茨城県庁
    旧茨城県庁
    旧茨城県庁

    旧茨城県庁

    昭和5年にこの旧県庁は建設され、さらに昭和27年には4階部分が増築され現在の形に出来上がった。当時、全国の多くの県庁舎の中でもこの茨城県庁舎は中部の高い塔がきちんとデザインされているのが特徴的であったが、これはともすれば重くなりがちなこの建築のデザインを軽快に見せる動きをしている。 4階部分を増築してしまったために建築物な魅力には乏しいが、環境と溶け込んだ端正なたたずまいは下手な現代 建築より数段優ったものとなっている。

    Location 水戸市三の丸

  • 水戸市水道部低区給水塔
    水戸市水道部低区給水塔
    水戸市水道部低区給水塔

    水戸市水道部低区給水塔

    この給水塔は全国にある中でもゴシック様式でまとめた数少ない秀作である。入り口上部の尖塔アーチがまぎれもないゴシック様式であり、垂直の線を強調している点もゴシック特有のものである。またその美しき外観の中には近代都市建造造の理想が織り込んで造られており、給水塔として日本にその類例を見ないものである。 姿、形もその保存度もなかなかのものであり、景観を通りこして景色になっている素晴らしさがこの建物の特有 である。

    Location 水戸市松本町

  • 県立水戸商業・旧本館玄関
    県立水戸商業・旧本館玄関
    県立水戸商業・旧本館玄関

    県立水戸商業・旧本館玄関

    明治37年完成のこの建物は本館の玄関であり、両側には半円形の欄間持つ大きな窓があり、さらにその上部には、 良くぞやったぞと思われる天然スレートで葺いたドームがのっている。ロココ調、またはベルサイユ宮殿を模したものと云われているのだが、なによりの特徴はアンバランスの美であり、若々しさである。大きなアーチに対して小さすぎる切妻屋根、アーチ自体の大きさとその高さ。いずれをとってもアンバランスなのだが、それだけに印象的であり新鮮さを覚える。 設計者の「駒杵勤治」は茨城県技師(営繕士師)であった。正面にこの施設を移設し、大アーチをくぐって登校できたら愉快だなぁと思うほどに、印象的で若々しいデザインである。

    Location 水戸市新荘

  • 水戸気象台
    水戸気象台
    水戸気象台

    水戸気象台

    水戸気象台は昭和を代表する建築家「堀口捨巳」作であり、この様に装飾を取り払った白くて箱状のデザインを 「モダニズム」という。堀口は日本におけるモダニズムの先覚者であり、1938年(昭和10年)にこれを完成させている。 ある梅雨の晴れ間で気持ちのいい日に金町通りより歩いて入ってみたのだが、一瞬足が止まってしまった。日差 しの強い日であったとはいえ、岬の灯台の前に立っているような錯覚に陥ったのである。かつての建築界の様式主 義に反発し、新しい様式に挑戦していたエネルギーがこの地味な建物を際立たせるのだと感じた。

    Location 水戸市三の丸

  • 旧弘道館
    旧弘道館
    旧弘道館

    旧弘道館

    弘道館は、徳川斎昭公が天保年間に人材養成の為に建てた文武研修の学校であり、基本方針としてどんな時代にも必要な人間の理想を達成しようというねらいがあったのだろう。外国の思想風俗をいたずらに模倣する国民に堕落しないようにと思索し、創造されたのが弘道館の教育であると思われるが、そこには国家理想と人間理想との調和一致を目指す努力があったのではないだろうか。それゆえに弘道館の教育には、時代を超えて今日我々が深思反省すべき問題が多く示されているのであった。

    Location 水戸市三の丸

  • 旧水戸城薬医門
    旧水戸城薬医門
    旧水戸城薬医門

    旧水戸城薬医門

    この城は昭和58年に県指定の有形文化財となっている。出入り口は中央だけ三間一戸からなっており、屋根には二つの脇扉がついているのだが棟を中心よりずらしていて側面から見ると対称形ではない。この結果正面から軒が深く見える為にゆったりとし、威厳がでるのでこの形式で造られた例は多い。 昭和50年に現在の場所に移築されており、その際に切妻造であった屋根をもとの茅葺きに替えて現在の銅板葺にしたものである。その歴史的な意味合いも含め一見に価する。

    Location 水戸市三の丸

  • 安陣車(あんじんしゃ)
    安陣車(あんじんしゃ)
    八卦堂(はっけどう)

    安陣車(あんじんしゃ)

    この安陣車はなんと戦車なのである。徳川斎昭が作らせたものであり、鉄板で上部と四面を囲んだ部屋に一人が 入り、外部からの攻撃を防ぎつつ中から小銃が発射できるようになっている。鍛刀師・久木新七郎の作であり、新造時には彼の鍛えた鉄板がガンブルーに輝いていたと思われる。東照宮の物置にさりげなく置かれているのだが、 これがまたとても結構。

    Location 水戸市宮町

  • 八卦堂(はっけどう)
    八卦堂(はっけどう)
    八卦堂(はっけどう)

    八卦堂(はっけどう)

    弘道館の鹿島社参道に面しているこの八角の堂は、 各面の上欄に八卦(易)算木が取り付けられているため八卦堂と呼ばれている。 弘道館建学の主張を述べた「館記」の碑をつつむ堂社である。 この地には鐘楼や孔子廟他いくつかの碑があって、そのいずれもが弘道館の精神教育を支えるものであり、 筆舌に尽くしがたい爽やかな空間を味わえる。

    Location 茨城県水戸市三の丸